古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ジギスムント・ノイコム

Sigismund Neukomm 1778-1858


 19世紀前半においてノイコムといえば、数々の栄誉ある褒賞を受けた当時最も尊敬を受けた作曲家。1815年のウィーン会議の折りにはレジオンドヌールの騎士(リッター・独)の称号を受けています。それ以降は、ジギスモント・リッター・フォン・ノイコムと出版の際に名乗るようになりました。

 ノイコムはザルツブルクの音楽的な家庭の中で生まれ育ちました。音楽に対する才能を幼少時から現し、6歳の時にオルガンを人前で弾くまでになります。その他の楽器の技術も巧みに身につけ、弦楽器の他に管楽器も、特にフルートがお気に入りの楽器になりました。

 ザルツブルクの重鎮、ミヒャエル・ハイドンから和声の授業を受け、作曲にも手を染めます。才能をめきめき著し、14歳の時には師匠のオルガンの代役を引き受けるまでになります。

 18歳になると、彼はミヒャエル・ハイドンの推薦状を携えウィーンへと旅立ちます。1797年のことです。そう、ミヒャエルのより有名なヨーゼフ兄の元へと向かったのです。この師弟は親密な信頼関係でたちまち結ばれ、ノイコムはハイドンを親しみをこめ「パパ」と呼ぶまでに。ハイドンのピアノ伴奏による「ナクソスのアリアンナ」のオーケストラ編曲を担当するなど、師匠直々の依頼で編曲を行うこともありました。

 1804年、彼はウィーンからサンクト・ペテルブルクに移住、そこに4年間留まります。サンクト・ペテルブルクではドイツ劇場の指揮者としてオーケストラを1年間率いました。自ら上演するための劇作品をこの時期、作曲しています。行き来していたモスクワでは、〈オーケストラのためのファンタジー〉というジャンルを創出しました。最初の例はハ長調の作品で、他に3曲を残しています。〈オーケストラのためのファンタジー〉は、単一のソナタ形式の曲で、それに長い序奏が付されているドラマ仕立ての作品になっています。

 ロシアでは歌曲、ピアノ作品、そして伝統的な形態の序曲を作曲しています。この頃より演奏家・作曲家として名が知られるようになり、評判が国外にも知れ渡るようになります。

 1808年の6月末にサンクト・ペテルブルクを後にし、ベルリンに至りそこで3ヶ月を過ごし、ベルリンジングアカデミーの楽長、ツェルター(Carl Friedrich Zelter)との交流をもちます。夏にはロシアで作曲した作品を出版社に届けるため長くライプツィヒに留まりました。11月半ばにウィーンに到達、そこでは最晩年のハイドンの元を毎日訪れたといいます。

 1809年の2月にノイコムはウィーンを発ちザルツブルクを経由、そこで母親と最後の再開を果たします。翌年からパリに定住、そこで4年間を過ごします。流行のグランドオペラの作曲に触手を伸ばしますが、そのジャンルで成功を得ることはありませんでした。パリでは、ドゥシーク(Jan Ladislav Dušík、グレトリ(André-Ernest-Modeste Grétry)、ケルビーニ(Luigi Cherbini)らと交友し、彼らを通じフランスの貴族社会とのつながりができ、 ドゥシークの亡き後は、かのタレイラン(Talleyrand-Périgord)の音楽監督を引き継ぐというまたとないチャンスをつかみます。1814年にはタレイランの随行員としてウィーン会議に赴きます。そこで〈レクイエム ハ長調〉がシュテファン教会で1815年1月21日に演奏され、それがきっかけとなりシュヴァリエ勲章の受賞となったのです。

 パリに戻ると、ルイ王の全権大使、ルクセンブルク公とともにブラジルを訪れます。ポルトガルのジョアン6世、バルカ伯爵、サンアマロ伯爵と、仕える主人が替わっても、ノイコムの洗練された性格と国際的な人柄は誰からも愛され引き止められたため、結局4年間をブラジルのリオ・デ・ジャネイロで過ごすこととなります。この南アメリカ大陸の都市で、ハイドンやモーツァルトの作品を演奏し、広めたことは、ブラジルにとっても意味のないことではなかったことでしょう。

 1821年10月に彼は再びパリでタレイランの暖かな歓迎をうけます。ここで再度、ヴォデモン公女、後にルイ・フィリップ王となるオルレアン公から特別な後援を受けています。

 ブラジル訪問前のパリ時代(1810-14)、彼の主な興味は、宗教音楽と歌曲にありました。ブラジルからの帰還後も、彼はミサやレクイエムといった宗教作品に精力を傾け、器楽曲については時々書くだけで、ロシアで彼が着手し注力した伝統的なシンフォニーや序曲といったフィールドに戻ることはありませんでした。

 1826年まではパリに居を定めていたノイコムですが、その後はひとところにじっとしていることがありません。1820年代にはイタリア、スイス、オランダ、イギリスを旅して、1830年の終わりにはイギリス大使を命じられたタレイランのお供でロンドンに滞在。彼のオラトリオはイギリス各地でも演奏され歓迎されました。イギリスはパリに次ぐノイコムの第二の故郷になりました。その後、アフリカ諸国にまで足を伸ばしている彼は、相当に好奇心の旺盛な人物だったのでしょう。

 1837年にはマインツのグーテンベルク像の除幕式で自作の指揮、ザルツブルクでのモーツァルトの記念像の除幕式では賛辞を述べ、指揮をして、賛歌を作曲しています。ウィーン古典派の歩く記念碑として尊敬を集め、ウィーン楽友協会の名誉会員をはじめ、栄誉が各所から授けられました。しかし、すでに彼の存命中から作品自体はほとんど忘れ去られていました。1858年4月3日に80歳の誕生日を目前に亡くなったノイコム。彼が1804年からつけ続けた自作品目録は1265項目を数えますが、亡くなる直前に「ソリストと合唱のためのフランス語によるお告げの祈り」が記され、閉じられています。

【S.ノイコムの肖像画】


[ジギスムント・ノイコムのシンフォニーを聴く]

英雄的大シンフォニー 作品19


 ノイコムはこの曲をリオ・デ・ジャネイロで1817年に作曲しています。翌年には名高いライプツィヒの出版社、ブライトコップフウントヘルテルから出版されています。この曲のタイトルはベートーヴェンがこれより15年前に書いたシンフォニーを思い起こさせますが、ノイコムのものは、より具体的な一人の将軍が登場し、戦に挑む様子を描いたようなシンフォニーになっています。

 強烈なティンパニーのロールに続いて管楽器のユニゾン全奏。鬨の声を挙げるように始まります。主部も管楽器によるファンファーレに始まります。戦況は常に前向きで英雄が胸を張り進んでいくようです。第2主題は、スケルツァンドのお茶目なテーマ。展開部では両主題が絡み合いながら調性を変化させてゆきます。曲尾に向かい歩みを速めてゆく様は、群隊が力強い勝利の雄叫びを挙げているようです。

 第2楽章は快速なメヌエット。喜びに満ちた踊りのような主部と、平行短調の憂あるトリオが対比させられています。

 第3楽章はハイドンの匂いを感じさせるアンダンテの変奏曲。ヴァイオリンソロの第1変奏、短調の第2変奏に続く第3番目にして最終の変奏でテーマが、ヘンデルのオラトリオ〈マカベウスのユダ〉から「見よ勇者は帰る」に差し変わります。凱旋するユダを民衆が歓喜をもって迎えるシーンで歌われる(日本でも表彰の音楽として大変有名な曲)、このテーマが意図しているのは、やはりこのシンフォニーで描かれている英雄の凱旋を讃えてのことなのでしょう。

 第4楽章は古典派シンフォニーらしい機知に富む楽しい楽章。俊敏なテーマが行き来し、その中に金管楽器によるファンファーレが聴かれ、英雄的なシンフォニーが高らかに鳴り響き幕を閉じます。

(2018.9.18)


【関連動画】

S.ノイコム:英雄的大シンフォニー 作品19

ケルン・アカデミー、M.A.ヴィレンス(指揮)☆