古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ジョゼフ・トゥシュムラン

Joseph Touchemoulin 1727-1801


 フランス中部の街にオーボエ奏者の息子として生まれたトゥシュムランは、ヴァイオリニストとしてボンのザクセン選帝侯クレメンス・アウグストの宮廷楽団に雇われます。1754年の8月15日にはパリのコンセール・スピリテュエルで彼の最初のシンフォニーが演奏されたという記録が残されています。1761年には、ボンの宮廷楽長に任命されますが、後任の選帝侯のマクシミリアン・フリードリヒが音楽家の給料を強引に下げたのを受け、トゥシュムランは宮廷楽団を辞職します。楽長職を受け継いだのは以前からその地位を切望していたルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(楽聖の祖父)でした。

 ヨーロッパの郵便事業(そこには郵便馬車として人の移動も含まれる)を一手に引き受けていたトゥルン・ウント・タクシス公は18世紀の半ばにレーゲンスブルクに居城を移し、ますますの発展を見せていました。宮廷内の音楽文化もにわかに賑やかになり、アレクサンダー・フェルディナント候公は選りすぐりの楽師たちを各地から集め始めます。トゥシュムランも招聘を受け、1761年の10月に赴任、その後82年には宮廷楽長に昇進し、レーゲンスブルクの音楽文化の水準を高く引き上げるのに貢献しました。 

 宮廷内では定期的なコンサートや宗教的セレモニー、そしてジングシュピールやオペラなども上演されていました。トゥシュムランにも「ミサ・ソレムニス」「レクイエム」それに2つのオペラの楽譜が現存しています。同僚にはヴァイオリニストであり作曲家のポコルニー(Franz Xaver Pokorny)らがいて、イタリアからオーボエとフルートの名手が呼ばれるなどオーケストラの水準はかなり高かったということです。音楽年代記の執筆者、J.N.フォルケルもこの宮廷楽団を聴き、ウィーン、マンハイム、エステルハージと並ぶドイツ最高水準のオーケストラと評しています。ヨーロッパ中を修行しながら旅して周っていたスウェーデンの楽長J.M.クラウスもレーゲンスブルクに1783年3月に立ち寄った際、両親に「驚くべきオーケストラの完璧さ」を伝える手紙を書いています。

 その後この宮廷楽団は、1780年代にはシンフォニーも数多く書いている音楽監督、シャハト(Theodor von Schacht)の元、絶頂期を迎えます。しかし1790年代も終わりになるとフランス軍からの攻撃にさらされ財政も傾き、宮廷楽団は1806年に解散してしまいます。トゥシュムランはしかし1801年10月に亡くなる時まで十分な年金をもらいながら生活をすることができました。

 トゥシュムランの墓碑銘には、「彼の言動は欺瞞のない、公平で私心なき愛の信仰に裏付けられていた」とあります。

【J.トゥシュムランの肖像画】


[ジョゼフ・トュシュムランのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ヘ長調 作品1-5


 1754年に〈ボンより〉と紹介されたトゥシュムランのいくつかのシンフォニーがパリのコンセール・スピリテュエルで演奏され大きな成功を収めました。これを機に同地で作品1と作品2のシンフォニーが出版されています。それらのシンフォニーは、才気活発で若々しい音楽の喜びにあふれるもの。ボンの宮廷の庇護を受けながら留学・師事したタルティーニ(Giuseppe Tartini 1692-1770)からの影響と、マンハイム楽派のギャラント・スタイルと多感様式の影響を見ることができます。2本のホルンの参加は自由で、つまり弦楽器だけでの演奏も可能となっています。

 第1楽章はマンハイム楽派を思わせる形式で、前半部分は属調に終止し、展開部は第1主題部を中心に展開、再現は第2主題からというコンパクトながら隙のないきれいな形をしています。

 第2楽章は、調性の歩みも典型的なソナタ形式の楽章。歌にあふれたイタリアを思わせる音楽です。

 第3楽章はジーグ風で、やはり凝縮されたソナタ形式をとっています。

 このトゥシュムランのシンフォニーは、モーツァルトが子供時代に書いた3楽章形式のイタリア型シンフォニーと類似するところが多々あります。

 トゥシュムランのシンフォニーの音源は、アイルトン率いるレ・ザンヴァンシオン(Patrick Ayrton – Les Inventions)による優れた演奏がありますが、現在流通しているのはこの録音だけのようです。トゥルン・ウント・タクシス家の18世紀の音楽文化を総合的に伝えてくれるようなアルバムの出現を待ちたいところです。

(2016.9.7)


【関連動画】

J.トュシュムラン:シンフォニー 第17番 ニ長調

レ・ザンヴァンシオン、P.アイルトン(指揮)☆