古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ヨハン・シュターミッツ

Johann Stamitz 1717-1757


 マンハイム楽派の創始者と謳われるヨハン・シュターミッツもまたボヘミア人。当時これほど多くのボヘミア出身の音楽家がヨーロッパ中で活躍していたのは、ボヘミアのイエズス会が高水準の音楽教育を施していたという理由があったためです。

 Jan Václav Antonín Stamicと、一応チェコ語の綴りを記しますが、シュターミッツの場合は姓の綴り方が様々にあり、その上、一族で音楽家になったのは彼だけではないため、真作を見極めるのは容易ならざるとのこと。

 また、ヨハン・シュターミッツに限らず、マンハイムの作曲家の残した楽譜について、信頼のおける第一次資料はほとんど残されていません。1795年にマンハイムの町は大火に見舞われ、宮廷の楽譜文庫がその際に灰と帰し、第二次大戦末期の爆撃で宮殿そのものが破壊されているためです。マンハイムに豊かな楽派が存在していたらしい、ということすら忘れ去られていた中、20世紀に入ってから学者たちの尽力によって発掘されてきたのです。

 それでも町の外に持ち出された楽譜や、パリなどで出版された楽譜は決して少なくはなく、今では全貌をどうにかうかがえるようにまでなってきています。

 それでは、ヨハン・シュターミッツはマンハイム宮廷でどのような役を果たしていたのでしょうか。

 文化都市マンハイムの歴史は、1720年にプファルツ選帝侯カール3世フィリップが、宮廷をハイデルベルクから移したことにより始まります。その後1743年には、カール(4世フィリップ)・テオドールが選帝侯を継承することにより、ヨーロッパ屈指の学芸・文化の町がここに花開くことになります。この新選帝侯は、科学、商業、そして芸術の大いなる庇護者で、自身でも楽器を演奏する大の音楽好きでした。宮廷に雇われる音楽家の数は器楽奏者だけで最盛期には90名を数えたというのですから、マンハイムが〈音楽家の天国〉と言われていたことにも頷けます。

 ヨハン・シュターミッツは、このカール・テオドール候就任とほぼ時を同じくしてマンハイムの宮廷に雇われました。初めはヴァイオリンのヴィルトゥオーゾとして活躍、そして1750年には宮廷楽団の器楽監督に任じられています。彼は、カリスマ的なヴァイオリン演奏によって楽団を統率。優秀な音楽家が次々と仲間に入り、またその子弟も訓練されてゆく中で、正確なフレージングに整然と揃ったボウイング(弓使い)で演奏する、近代のオーケストラに通づる価値観をもつ楽団が形成されるに至ります。

 シュターミッツは、ミサ曲などの声楽作品も作曲していますが、残された作品の大半は器楽曲で、特にそれまで付随的と看做されていたシンフォニーを、音楽の一大ジャンルにすることに貢献しました。彼はその生涯に少なくとも58曲以上のシンフォニーと10曲以上の弦楽合奏曲を書いたといわれています。

 初期の作品は、通奏低音に支えられたイタリアのコンチェルトを思わせる様式で書かれています。ニコロ・ヨンメッリ(Niccolò Jommelli)など、イタリア人のつくるオペラの序曲の様式を巧みに我がものにしながら独自のスタイルを築きあげていきました。

 ヨハン・シュターミッツはいわゆる、マンハイム楽派の第一世代の親分ですが、クレッシェンドなどを用いることによりダイナミクスを多様に変化させてゆく書法や、大胆な上昇音形など、マンハイム楽派の諸々の特徴は早くも彼から発せられたもので、彼の打ち出した様式は後年まで影響を及ぼし続けました。

 1754年からは1年間パリに滞在し、シュターミッツの登場する演奏会でシンフォニーが取り上げられたことが報告されています。パリでは作品の出版なども緒に就き、ますますの活躍が期待されていましたが、マンハイムに戻ってから2年後に39歳の若さで亡くなっています。

 彼は実践的教育者としても秀でていて、仲間たちの子弟を教育し、また自身のカールとアントンという二人の息子も後にマンハイム楽派の第三世代として活躍してゆきます。この町に独自の音楽文化が育まれ隆盛を極めたのは、パイオニアたるヨハン・シュターミッツの音楽性のみならず、教育にも情熱を傾ける彼の人格としての大きさがものをいったのです。

【J.シュターミッツの肖像画】

【カール・テオドール候の肖像画】


[ヨハン・シュターミッツのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ニ長調 作品4-2 〈シンフォニア・パストラーレ〉


 この作品はパリのユベルティにより1758年に出版された6曲セットの内の第2曲。18世紀に最も人気のあった性格的なジャンルのひとつである〈パストラーレ〉という副題がつけられています。通常、〈パストラーレ〉はキリストの降誕祭に合わせてクリスマス・イブに演奏されるものですが、ここでの副題は、あくまで作品の性格をほのめかす程度につけられたもので、キリスト教的な作品として特別に作曲されたものではありません。最終楽章には”Nesem vám noviny”というボヘミアの聖歌から節が取られていますので、同時代の聴衆にはいかにもクリスマスを思わせるシンフォニーとして響いたのでしょう。

 第1楽章では、細かな素材が有機的にからみ合い、いくつかの主題が交互に顔を出しながら生き生きと展開してゆきます。バロック時代のリトルネロ形式がソナタ形式にとって変わられる様を見るような折衷的な形式で書かれています。第2楽章は穏やかな調べが徐々に形を変化させつつ、近親調を巡りながら進んで行きます。あたかも暖炉の前でまどろむような印象をもつ楽章です。第3楽章にはメヌエットが配されています。メヌエットを挿入することにより四楽章制を定着させたのもマンハイム楽派の功績といわれています。第4楽章は8分の6拍子で、牧童がヨーデルで呼び交わすような、田園の情景を彷彿とさせる素朴な楽章になっています。ホルンやオーボエが独立して活躍する部分もあり、この作品を演奏したマンハイムのオーケストラの充実ぶりが伝わってきます。

(2015.6.9)


〈モーツァルトの就職活動は失敗だったのか・・〉

 1777年、21歳になったモーツァルトが1年と3ヶ月にわたり旅をした〈マンハイム・パリ旅行〉は、実質、当時の二大音楽都市への就職活動だったのですが、それは「失敗」に終わったと言われています。しかし、果たしてそれは本当に「失敗」と断定できるものだったのでしょうか。

 1742年にマンハイムの宮殿にプファルツ選帝侯としてカール・テオドール候が移り住んでからというもの、毎年有給の歌手及び器楽奏者が招かれ、大いなる活況を呈していたとは前述した通りですが、モーツァルトが就職を目当てにマンハイムを訪れたのはカール・テオドールが就任してから30年以上の月日が経過した1777年の10月のことです。そこでモーツァルトが採用とならなかったのは事実なのですが、それには彼自身の資質とは関係のない理由がありました。モーツァルトがまさにマンハイムで採用の通知を待っているこの年の12月は、カール・テオドール候にとっても、自身がバイエルンの宮廷への昇格という知らせが届くことを待ちわびていた時だったのです。事実、年が明けると話は具体化し、宮廷はそれから一年もしない内に大多数の音楽家ごとミュンヘンへ引っ越していきました。

 モーツァルトはパリからの帰りの、翌年11月にもマンハイムに寄りますが、かつての大音楽家集団、それに歌手である恋人のアロイジアもミュンヘンに移り住んだ後で、すでにマンハイムはほとんどもぬけの殻の状態にありました。

 その後、ザルツブルクへの帰途にはミュンヘンにも立ち寄り、やはり就職の機会を窺ったモーツァルトでしたが、ここでのカール・テオドール候は、就任早々「バイエルン継承戦争」に巻き込まれていて、新たに音楽家を迎え入れるどころではなかったのです。

 モーツァルトのこの(就活)旅行では、ヴェルサイユの宮廷からオルガニストとしての具体的な申し出があり、ここでの条件は、モーツァルト自身が述べているほどには悪いものではなかったにもかかわらず、その話を断っています。

 パリには当時、〈コンセール・スピリテュエル〉など、民間のオーケストラ団体などがあり、そこを足場に活躍している作曲家はいましたが、フランス革命を10年後に控えた末期ブルボン朝に、音楽家を従来のように雇う余力は既になく、そういった意味でも、ヴェルサイユ宮殿のオルガニストの地位というのは、この町(隣町ですが)が提供できる最高の就職口のひとつだったのです。パリにおいても、モーツァルトが納得するような宮廷楽長などのポスト自体が実質的には存在しなかったという事情は理解されるべきでしょう。

 終身雇用形態が崩れ、職場を替えることを厭わなくなった現代日本における急速な世の中の展開と同じように、18世紀の末にも、君主制から民主制への大きな転換、価値観が根底から崩れ去るような変化がありました。そんな中、若い音楽家は、宮廷や教会に仕えて生計を立てるということに、疑問を感じるような嗅覚をもっていたのでしょう。

 事実フランス革命後は、モーツァルトが想定していたような旧来の就職先は総崩れしてゆきます。貴族などの援助を受けつつフリーランスの音楽家として活躍を始めることになるモーツァルトは、先陣を切ってその世の中の新しい動きに対応していったということになります。

 ウィーンでも、そうした弱体化してゆく宮廷に頼ることなく、J.B.ヴァンハルL.A.コジェルフなど、優秀な音楽家たちがやはりフリーランスの音楽家として生計を立てられるようになっていました。それこそが真の芸術家と言わんばかりに。その後、ベートーヴェンやシューベルトが、堂々と精神的にも地位的にも独立した芸術家として、どこにも就職することなく人生を全うしたことはご承知の通りです。


【関連動画】

J.シュターミッツ: 4声のシンフォニア ニ長調

新オランダアカデミー室内オーケストラ、S.マーフィー(指揮)