古典派シンフォニー

百花繚乱

 

ヨハン・アドルフ・シャイベ

Johann Adolph Scheibe 1708-1776


 シャイベというとまず、ヨハン・セバスティアン・バッハを時代遅れと批判した人としてその名を知る人が多いのではないでしょうか。このバッハの音楽様式に対する批判は、当時からバッハを擁護する立場の論者から激しく攻撃を受け、シャイベの評論家としての信用を落とすことになります。

 しかし、J.S.バッハの音楽について詳しく書かれたその論評を読めば、うなずけることも多く、決して的の外れた意見ではないということが分かります。今日では、バロック音楽から時代が新しい様式に変遷しつつある中にあって、J.S.バッハの頑なな音楽への態度を揶揄する文章として読まれることが多いと思います。

 シャイベはしかし、この大オルガニストにしてカントルの労作に心からの敬意を表しています。我々はいささか短絡的にシャイベの論評の一部分を読んで判断をくだしてしまっているようです。

 シャイベ自身は、音楽についての批評を書き、作曲をし、指揮をし、教師でもあり、プロデューサーを務めもするという総合的な音楽家でした。J.S.バッハの音楽を「大仰で混乱した」と指摘したシャイベは、啓蒙思想を信奉し、音楽に自然さ、単純さを求め、感じやすい旋律を重視すべきだと主張しました。シャイベの数少ない音源を聴くかぎり、彼は作曲家としても、その主張通りの新しい音楽を、古典派スタイルの黎明期から実践していたことが分かります。

 彼は有名なオルガン建造家の父の元、1708年にライプツィヒに生まれました。父親の仕事場での事故のために6歳の時に右目を失っています。ドイツ国内でオルガニストの地位を狙うも席に着くことができず、1736年にハンブルクに移り、そこで雑誌〈批判力のある音楽家〉の出版を始めます。これはまとまった批評誌としての最初の例のひとつで、独創性と前衛性のある批評が展開されました。自伝によると、ドイツにおける青年期に、シンフォニアやフルート・コンチェル、声楽曲ほかの膨大な量の音楽を作曲したということです。

 1740年(36歳)にデンマーク宮廷(クリスティアン6世)の楽長になり、47年に王が亡くなるまでその地位にとどまります。新王フレデリク5世は音楽の好みが異なりシャイベは解雇となりますが、デンマークでは、ホルベアの伝記の執筆、さまざまなジャンルのデンマーク語の著書をドイツ語に翻訳するなどの多彩な執筆活動のほか、コペンハーゲンに音楽家協会を立ち上げ、最初のコンサートを1744年に開いています。このデンマーク最初の音楽協会のためにシャイベは尽力し、作曲と指揮を執り、有料コンサートを毎週開催。子供のための音楽教室も開き、1766年には再び宮廷のために作曲をするようになります。このまま亡くなるまでデンマークに身を捧げたシャイベは、18世紀半ばの同国における重要な音楽家とみなされています。

【J.A.シャイベの肖像画】


[ヨハン・アドルフ・シャイベのシンフォニーを聴く]

16声のシンフォニア ニ長調


 シャイベの著作物(全てドイツ語)は、多くの図書館に保管され現存しています。しかし、彼の600に及ぶ全作品の半分以上の楽譜は1794年の王の宮殿(クリスチャンスボー城)を破壊した大火事により消失してしまいました。残りは、数曲の器楽曲とカンタータの一部だけという状況にありますが、残された作品で出版されていないものも多く、さらなるシャイベの研究が待たれるところです。

 ここでは、北ドイツの図書館に写しが保管されていた16声のシンフォニア(作曲年代等のデータは不明)を聴きましょう。

 第1楽章はニ長調の祝祭的な音楽で、技巧的なトランペット、2本のフルートとファゴットがソリストになり活躍する部分とトゥッティ部分との交代が華やか。バロック時代の管弦楽組曲を思わせるようなつくりになっています。第2楽章は一転してト短調になり、フルートが哀愁のあるメロディーを奏でます。ファゴットと2本のフルート、弦楽がそれを伴奏するという協奏楽章になっています。第3楽章は3/8拍子のプレストで、躍動感のあるメロディーがトゥッティ、ソロと交代で奏でられるカラフルな楽章です。

 16声部をオーケストラのメンバー表を頼りに数えてみると、弦楽4部、フルート3、オーボエ3、バスーン1、トランペット3、ホルン2というかなり大掛かりな編成。バロックの形式から抜け出しつつ新たな道を模索するような先進的な音楽で、彼の好奇心にあふれた進取の気性と、たえまなく仕事をするシャイベの創造性が反映されたシンフォニアです。

(2018.5.21)


【関連動画】

J.A.シャイベ:16声のシンフォニア ニ長調

コンチェルト・コペンハーゲン、アンドリュー・マンゼ(指揮)☆