古典派シンフォニー

百花繚乱

 

フランツ・ダンツィ

Franz Danzi 1763-1826


 フランツ・ダンツィは、かのマンハイム宮廷の有能なチェリスト、イノツェンツ・ダンツィ(Innozenz Danzi)の元に生まれ、父と姉から、またフォーグラー(Georg Joseph Vogler)から上質の音楽教育を受けます。マンハイムでは、音楽家の子供が積極的に家業を継いでいきますが、フランツの兄弟も演奏家となり、姉フランツィスカ(Franz Franziska 1756-1791)にいたっては、世紀の大歌手と謳われ人気を博し、またクラヴィーア奏者兼作曲家として室内楽作品も残しています。その生没年(モーツァルトと全く同じ)とともに興味がそそられます。

 フランツ・ダンツィは、まずは父親と同じチェリストとして早くも15歳でオーケストラの中で弾けるようになるまで成長しましたが、活動を開始しようとした矢先のこと、宮廷はミュンヘンへ引っ越して行ってしまいます。父、イノツェンツはカール・テオドール公に従いミュンヘンへ移住しますが、フランツは若い仲間とともにマンハイムに留まり、新しく開設された国民劇場で音楽家としてのキャリアをスタートさせます。そこでさっそく舞台作品を作曲する機会が与えられ、この劇場のためにジングシュピール(ドイツ語歌劇)を作っています。

 1782年になると、ミュンヘンの宮廷にチェリストとして雇われます。その翌年にリタイアする父親に代わり、この宮廷の大黒柱として本格的な活動を開始。ここでもジングシュピールなどを作曲、上演する機会を得て、大きな期待が寄せられます。

 1790年には、マルガレーテ・マルシャン(Margarethe Marchand)と結婚。彼女はフランツの姉と同様、有名な歌手及びピアニスト、室内楽の作曲家として知られていました。若い夫婦は92年より大々的なコンサートツアーに出発します。ライプツィヒやプラハ、そしてイタリアには18ヶ月間滞在し、各地でオペラを上演するなどして活躍、96年にミュンヘンに戻ります。98年にはコミック・オペラ〈真夜中 Die Mitternachtsstunde〉で成功をおさめ、P.ヴィンター楽長の元、ドイツ語のコミック・オペラと宮廷礼拝堂の音楽に責任を負う副楽長に任じられます。

 しかし、1798年に父を、1800年には愛する妻を慢性肺炎で亡くし(32歳の若さ)、1799年には、音楽の最大の擁護者として君臨し続けてきたカール・テオドール候まで亡くなっており、すっかり意気消沈してしまいます。その後次第に様変わりする宮廷内の音楽を取り巻く状況に耐え得なくなり、1807年に新天地シュトゥットガルトに楽長として赴きます。

 この地での仕事も必ずしも満足のゆくものではありませんでしたが、ここでは23歳年下のC.M.v.ヴェーバーとの親密な交流がもたれ、ダンツィの心は和らいでいきました。ダンツィはヴェーバーに助言と激励を与え、彼らはドイツ語によるオペラの上演を盛んにしようと誓い合います。ジングシュピールの性格を脱ぎ捨て、聴衆の興味を喚び起こす真のドイツ・オペラを創作しようと熱く語り合ったのです。ヴェーバーの小説〈音楽家の生涯〉の中には、ダンツィに対する愛情と敬意が書き連ねられています。

 1810年頃からダンツィは病気に苦しむようになり、シュトゥットガルトよりも仕事量の少ない新たな職場を探すようになります。カールスルーエのバーデン大公の宮廷の礼拝堂監督のポストに1812年7月に就任することに成功。ここでは、モーツァルトのオペラの上演と、そしてヴェーバーのオペラの初演を手がけてゆきます。しかし1815年からは、そうした指揮者の役目も次第に重荷になってゆき、徐々にフェスカ(Friedrich Ernst Fesca)や、J.シュトラウス(Josef Strauß)に仕事を引き継がせて行くようになります。

 ダンツィは、とりわけドイツ語のオペラの興隆にこだわりがありました。生涯で書いた17のオペラの中でイタリア語のものは1作しかありません。この時代には珍しいことです。

 オペラ作曲家を自認していたダンツィですが、器楽のための作品を軽んじていたわけではありません。クラヴィーア・ソナタや弦楽四重奏曲などには若い内から取り組んでいますし、自分の楽器であるチェロのためのコンチェルトは傑作の誉れ高いものです。また、ファゴットやホルンのための協奏曲、クラリネットのためのソナタなど、管楽器を主役にした作品が多いのもダンツィの特徴としてあげることができます。 

 シンフォニーも生涯に6曲をしたためていて、2曲ずつセットで、各々1790年、1804年、1818年に出版されています。ここでは、1804年にブライトコップフ・ウント・ヘルテル社から出版された内の1曲について詳しく見て行きましょう。

【F.ダンツィの肖像画】


[フランツ・ダンツィのシンフォニーを聴く]

シンフォニー ハ長調 作品20 P.221


 この作品は1803年の11月半ば以前に作曲され、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで1804年11月及び12月に取り上げられています。ダンツィのシンフォニーの中でも、創意にあふれた傑作と呼ぶに値する作品に仕上がっています。

 第1楽章はレントの序奏から始まります。ヴァイオリンや管楽器が穏やかに演奏するレチタティーヴォのようなほのかな性格の序奏。なかなか主調が定まりません。カデンツに導かれて主部に入ると、「ドドドド」とはっきりとした主音の提示から始まります。跳ね回るようなひょうきんな主部です。序奏にも第1主題部にも隠された鍵のように挿入されているモティーフは、第2主題を導く箇所で全貌を現します。私はその楽句に〈蝶番つづら折りモティーフ〉と名前をつけました。そのモティーフは展開部で大活躍、つづら折りする度に調を替えてゆきます。傑作なのはこの楽章の最後です。全奏で終わるのかと思いきや、最後にオーボエがppで〈蝶番つづら折りモティーフ〉を演奏して楽章を閉じるのです。

 さらに特異なのが第2楽章。この楽章は全編にわたり管楽器セクションだけで奏でられます。弦楽器は前奏、間奏、後奏を各々4小節間受け持つだけです。まるでハルモニー・ムジークのよう。ハルモニー・ムジークとは、木管楽器各々2本ずつで編成される八重奏などのジャンルのことです。もっぱらセレナードのような気楽な楽曲向きの編成なのですが、この楽章もまさしくセレナードということができます。フルート1本、オーボエ、ファゴット、ホルン各々2本ずつによる美しいハルモニー・ムジークになっています。ダンツィは、木管五重奏曲(フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット各1本ずつ)の作曲者としても今日名が通っていますが、ここではそんな管楽器の扱いに秀でたダンツィの面目躍如たる効果的な楽器使いを聴くことができます。

 操り人形の諧謔的な踊りのようなユニークなメヌエット(第3楽章)。トリオでは突如変イ長調という遠隔長に飛んでヴァイオリン・ソロが歌います。

 実験的な冒険心にあふれる第4楽章もユニークなもの。序奏は真面目ぶってハ短調。ホルンがハの音を伸ばす先に登場するハ長調のテーマは、今回もまたふざけた調子。しかし、すぐに短調に転じ雰囲気を替えてゆきます。休止の後に現れるのは、やはり第1テーマですが、今度はロ長調というなんとも納まりの悪い不安定な調性での登場。それに続くのはヘ短調による結構厳格なフーガ。ひとしきり展開されて再び登場する第1テーマは、今度は変ホ長調。聴く者をおちょくっているかのようなおかしさがあります。しかしハ長調で終結のフーガが始まるとテーマも主調で戻り華やかに曲が閉じられます。

(2015.7.29)


【関連動画】

F.ダンツィ: シンフォニー ハ長調 作品20 P.221

スイス・イタリアーナ管弦楽団、ハワード・グリフィス(指揮)